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StatsBeginner: 初学者の統計学習ノート

初学者が統計学、機械学習、R、Pythonの勉強の過程をメモっていくノート。

ボタンを「押下(おうか)する」という言い方はかなり昔から存在していた(文献引用つき)

システム開発 プログラミング IT業界 日本語 SIer

「押下する」は変な日本語?

 IT業界でよく使われる「押下(おうか)する」という言葉について考察したQiitaの記事が話題になっておりました。


qiita.com


 ブコメをみると「変な日本語だと思ってた」的なコメントが散見されましたが、実際、SIerの人とかと仕事をすると「押下する」という表現はもはや日常語レベルになっていて、よく耳&目にするんですよね*1。システムの設計書とかマニュアルに頻繁に出てきます。
 私は就職して1年目に、自社内の業務システムのマニュアルに「◯◯ボタンを押下」というような表現があるのを見つけて初めて知りました。


 上記の記事では、パソコンにおける「クリック」は「押し下げる」のではなく「押して離す」動作なのだから、「押下」と表現するのはおかしいのではないかみたいな話がされているのですが、あわせて「押下」という言葉が誕生した瞬間?についてのエピソードが紹介されております。


 別のブログ記事へのリンクとともに引用がされているのですが、次のようなコメントされた方がいるようです。

# それは私かも
u_2 Posted @ 2008/11/18 9:40


 1984年頃、ある大手生保の端末システムの基本設計書を記述しているとき、画面の操作説明を記述する際、「F2キーを○○する」と言う文章の○○に何を使うか半日ほど悩みました。
 「押す」では前方の物を向こうに押すニュアンスがある、「打鍵」ではピアノの様に叩くニュアンスがあり、字面的に「押下」が一番ピッタリで、広辞苑で調べても載って無く、漢字辞典で調べてもソンな言葉はありません。
 しかし一度「押下」と言う字を頭に刷り込むとそれ以外は思いつかなくなり、「押下」で基本設計書を作成し、提出しました。
 設計書のレビューの時に「この字はなんて読むの」と聞かれたとき赤面しながら「”おうか”と読んでます」と応えたのを覚えています。
 その頃は、まだワープロもなく手書きで設計書を作っていた頃でしたので、どこかの文章を引用したのでは無いと思います。
 その大手生保の端末システムは、日本の大手コンピュータメーカで、ホストシステムはIBMでしたので、その後主にその2社を中心に「押下」が蔓延していったのだと思います。(グーグってもその傾向が分かります)
変とは思っても他に適当な言葉が無いのですねコレが。
だから蔓延したのだと思います。


 なるほど、これをきっかけにIT業界で「押下」という言葉が広がっていったのではないかということですね。
 いわば、このコメント投稿者の方の「造語」だとされているわけです。
 
 

「押下する」という表現はもっと昔からある

 しかし結論からいうと、キーやボタンを「押下する」という表現はもっと昔からあったということが、調べてみて分かりました。
 以下、私が発見した使用例を貼り付けていきますが、一応断っておくと、上述の「それは私かも」とおっしゃっているコメント投稿者の方のお話それ自体は、たぶん本当のことだろうと私は思っています。適当な言葉がなかなか見つからなかったから、自分で「押下」という言葉を考えたというのは事実なんでしょう。


 ただ、ひょっとしたらそれは、どこかで聞いたことがあるけど無意識的にしか記憶されていなかった言葉が、たまたま思い浮かんだのかもしれません。
 じつは私も似たような経験があります。20歳ぐらいの時にネット上で「日記」を書いてたのですが*2、そのとき「縁遠い」という表現を自分で考えて使ったんですよね。
 しかしもちろん「縁遠い」という表現はもともと存在しているわけで、そのことを後で知って「ああ、あの時俺は、自分で造語を考えたつもりだったけど、どこかで聞いたことあった表現が浮かんできただけだったんだな」と理解したわけです。
 日本語の言語構造上「自然」な表現である場合、聞いたことがなくても思いつくということもあるとは思いますが。


 さて「押下する」の使用例ですが、上記コメント投稿者の方は1984年頃に思いついたとおっしゃっているので、それより古い例を見ていこうと思います。
 言葉の古い使用例をWebで検索する時、手っ取り早い方法として私は、


 を見るようにしています。(ただ、専門家の方に言わせればもっと良いデータベースがあるのかもしれません。無料のものがあればぜひ教えてください。)
 青空文庫は著作権切れの作品を扱っているので少なくとも50年以上前の文章だし、国会会議録やGoogle Scholarは時期を指定して検索できるので便利です。
 私の場合、会社の仕事であれば「日経テレコン21」を使って古い日経新聞や日経ビジネスの記事を検索することもできるのですが*3、今回は私用なのでGoogle Scholarで学術論文をあさってみました。


 なお、例えば「押下され」とかの場合、「おうかされ」なのか「おしおろされ」なのか区別がつかないので、その旨を注釈に付記しています。明確に区別ができるものも、もちろんあります。ただ、「おうげ」でなく「おうか」であるという証拠があるのかと言われると、それはありません。
 
 

「押下する」の使用例

 さて、まずは1980年の、ディスプレイをコントロールするためのプログラムの開発についての論文から。文献名を押下すると論文のPDFが開きます。
 
中村為雄, 鬼木博幸, 堀昭三, 矢鳴虎夫, & 磯泰行. (1980). グラフィック・ディスプレイ・コントロール・ルーチンの開発.

配列にキーボード入力されたコードがセットされる。RETURNキーを押下すると指定入力数に満たなくても,以降,指定入力数分SPACEがつめられて終了する。(p.187)

クロスヘア・カーソルの位置をコントロールして,任意の位置にセットしキーボードのいずれかの文字を押下することにより交点の座標を入力する。(p.187)

 
 
 
 同じ年に出ている航空宇宙技術研究所の報告書にも「押下」が出てきます。
 飛行機の計器類の開発に関する研究みたいです。
 
岡部正典, 川原弘靖, & 田中敬司. (1980). 統合航空計器の研究試作 (p. 48).

(3) マップ切り換え:DP-IIフライトデータまたはチェックリストが表示されている時,マップ表示に戻す場合にはこのスイッチを押下する。(p.16)

 
 
 
 次は1年遡って、1979年の論文です。これもディスプレイに関する研究のようです。
 
渡部哲夫, & 石原好宏. (1979). M345 文字表示装置支援ソフトウェアの作成. 山口大学工学部研究報告, 30(1), 131-142.

誤りがないことを確かめた後トランスミットキーを押下すると,データはDATAFAへ転送され,続いて画面右下には更にデータの入力操作を継続するか否かを問うライトペンディテクタブルフィールドを表示する.(p.136)

トランスミットキーが押下されるまで画面は保持される.ただし約9分をこえる時は,保障されない.(p.142)*4

 
 
 
 ほかにも70年代のものはたくさん見つかります。
 コンピュータが民間に普及し始めた時代ですから、入力インターフェイスに関する研究も盛り上がったんでしょうね。
 
中川三男, 大島猛, & 坂野進. (1974). 小形・軽量キーボードプリンタの実用化. 精密機械, 40(478), 963-968.

しかし普通の板ばねを使用すると,セレクタバーの振動と,キー押下に従って各部品ともばね力が一様に増加し押下最大力が増大する問題を生じるため,座屈効果を持つ板ばねを使用している.(p.966)

 
 
野村仙一. (1976). 日本語によるオンライン文献検索システム. 情報管理, 19(8), 588-597.

コマンドの入力は操作の簡単なボタン押下式を採用し,漢字ディスプレイ装置に接続されたキーボード・アダプタ上のプログラム・ファンクション・キーに割り当てている。

 
 
【有料】村上国男, 佐藤昌貞, & 長谷川隆三. (1978). 機能分散形システムにおける機能の動的可変機構とその評価. 電子情報通信学会論文誌 D, 61(11), 811-818.

スタートボタン押下(p.815のフローチャート)

 
 
 このへんの使用例をみていると、1970年代ごろ、コンピュータ産業の勃興とともに、ボタンやキーを「押下する」という言い方がその界隈でよく使われるようになっていったという感じなのではないかと想像されます。他に、カメラのシャッターボタンを押下するみたいな使用例(この論文のp.141)もありましたが。
 
 
 しかし、「押下」という表現が「この頃に生まれた」とまで言えるのかはわからないし、せっかくなのでもっと古い例も探してみたくなりました。
 それで見つけたのが、これ。(このへんからはぜひ、文献名を押下して実物を確認して頂きたいと思います。古い学術論文は、味わい深いものがあります。)
 
石川武二, & 梶正明. (1948). 印刷電信. 電氣學會雜誌, 68(715), 131-135.

Hughes氏は1855年,送信機と受信機を常に同期的に回轉送信機の回轉アームが押下された文字キーの位置を通過する瞬間線路に短い電流インパルスを送つて受信機の電磁石を動かせ,タイプホイールによつて文字をテープ上に印刷させる連續同期式の印刷電信機を考案した。(p.131)*5

 
 これは占領下の1948年の論文で、雑誌名も本文ももはや旧字体ですw
 念のため言っておくと、轉は転、續は続ですよ。
 論文の冒頭からモールスが出てくるのが感慨深いですね。なんかよく分かりませんが、電信で情報を送って紙に出力する、FAXのような装置についての論文のようです。本文中では「テレタイプライタ」と呼ばれてますね。
 
 
 同じ1948年に、全然別の分野でも「押下」の使用例を見つけました。なんか内容はよくわかりませんが溶接技術の話です。
 
三上博. (1948). ガス熔接法 (VII). 熔接學會誌, 17(10-12), 373-374.

今調整把手を徐々に右に廻せばその押下す力は調整發條(ばね),調整發條受皿、ゴム製隔膜(又は屈椀板)を介して槓杆(こうかん=テコのこと)の上にある槓桿(こうかん=テコのこと)押え金物を押し,その下にある左右2枚の槓桿の外端を降下せしめ……(p.373)


 ググらないと漢字が読めないレベルですねw
 いや待てよ、しかしこれはよく考えたら「おしおろす」でしょうね。古語でもサ変動詞の連体形は「◯◯する」なので。失礼しました。
 
 
 さて、もっと古いもの、たとえば戦前のものとかもあるんだろうか?
 
 
 
 
 ・・・ありました。
 これをみてください。
 
林昭徳. (1932). 地下鐵道に於ける經濟的電力設備及び運轉方式. 電氣學會雜誌, 52(532), 891-902.

當時(当時)毎朝規定の時刻に上野變電所(変電所)内制御質で制御盤上の押釦(ぼたん)を押下して神田(神田)變電所をスタートし,又夕方其の時刻に同様押釦を押下して之れをストップして居ります。(p.901)*6

 
 1932年(昭和7年)、つまり満州事変の翌年のものですね。
 東京地下鐵道株式會社、つまり現在の東京メトロの前身にあたる会社の社員による、地下鉄における電力の安定供給がいかに大変かみたいな内容の、たぶん講演録です。
 
 
 さて戦前の使用例も見つかったことだし、「押下」という表現の古さが確認できて良かった良かったと思っていたら、もっと古いのが出てきました。
 
山根幸知. (1921). 自働式電話交換機に就て. 電氣學會雜誌, 41(395), 411-432.

レコーヂング、キーを備へ交換手が加入者に應答(応答)するまでは手動式と同一なれども番號(番号)を聞き終りたる後は其番號に相當するレコーヂング、キーを押下す、レコーヂング、キーは一座席のプラグコードに共通にして機械的に閉鎖し電氣的に開放する押釦(おしぼたん)型なり、而して之をオフヰス、ニユーメラルの二種に別つニユーメラル、キーは……(p.413)*7

半機械式に於ては働作の敏活を期する爲め(ため)相手加入者を呼出すにストロージャー式に用ゆるが如きダイヤルを用ゐずレコーヂング、キーを用ゆること前述の如し、此レコーヂング、キーは一旦押下せられスタートせられたる後は其接續(接続)が完了せると否とに係らず直ちに第二の呼に對し(対し)使用し得らるゝものならざる可からず、……(p.413)

 (ほか何箇所も出てくるけど疲れたので引用省略)
 
 大正10年の、電話交換機に関する論文です。1921年ですから、第一次世界大戦が2年前に終わって、国際連盟ができたり、軍縮会議が進められたりしていた時代ですね。
 私は明治・大正ぐらいの文献を読むことがたまにあるので、旧字・旧仮名が読めないということはないのですが、普通の人はきついかもしれません。
「レコーディング・キー」ではなく「レコーヂング、キー」なんですね……。
 
 

まとめ

 別にまとめることもないのですが、とりあえず今回分かったこととしては、ボタンやキーを「押下する」という表現はかなり古くからあるものです。ブコメで指摘を頂いたように、引用した例の中には「おしおろす」と読ませることを意図したものである可能性を排除できないものがありますが、1921年の用例で「押下せられ」があるので、サ変動詞としての用法が古くから存在したことは間違いないです。*8
 少なくとも、「SIer界隈の人が勝手に考えた、正式ではない日本語」というわけではないようです。


 しかしもともと工学の世界で、ヒューマンインターフェイスに関わる学者・エンジニアの人たちが好んで使っていた用語ではあるかもしれず*9、今回調べた結果のみをもって断言できることではないものの、1970年代ごろのコンピュータ産業の盛り上がりとともにその界隈で定着していった言葉であるような予感はします。
 しかも恐らく書き言葉限定なので、一般の感覚からしたら「そんな日本語あるの?」という感じではあるんでしょうね。
 また、冒頭のQiita記事が言うように、厳密にはパソコンの「クリック」ではなく物理的なボタンについて用いられるべき用語ではあると思います。



 ・・・おっと、ここは統計の学習ブログだったw
 関係ない話題ですんません。
 来週ぐらいから『ITエンジニアのための機械学習理論入門』の勉強会をやる可能性が濃厚なので、学習の経過をまとめていきたいと思います。『言語研究のためのプログラミング入門』の勉強会が終了したのでこれもあとでまとめエントリを起こします。
 

*1:基本的に書き言葉であり、「耳」にするのはドキュメントを読み上げる時ぐらい。

*2:当時はまだ、今のようにブログサービスは充実してなかったので、レンタルサーバにHTMLをFTPでアップして書いていた、いわゆるテキストサイトみたいなやつ。

*3:日経テレコンにはあらゆる新聞と多くの雑誌が収録されているが、1980年代よりも昔のものを探そうとすると日経新聞と日経ビジネスぐらいしか収録されていない。

*4:この部分だけだと「おしおろされる」である可能性を排除できないが、同じ論文内で「押下する」が使われているので、おそらく「おうかされる」のつもりだろう。

*5:この用例は「おしおろす」である可能性も排除できない。

*6:この用例は「おしおろす」である可能性も排除できない。

*7:この用例は「おしおろす」である可能性も排除できない。

*8:ひょっとしたら「おうか」ではなく「おうげ」のつもりかもしれんけど…

*9:今回は論文しか調べてないから、そういう例ばかり見つかった可能性もある。